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期と言える。つまり、出生率は生活環境の改善によって非常に高いレベルを保ち、死亡率はある程度のコントロールによって次第に低下した。しかし、この期間の末期において、戦争の影響で出生率が少し低下したことが注目される。
3)1945〜1985年の期間
終戦後、先進国から導入された新しい医術薬品によって、20年間に死亡率が18‰から5‰にと急速に低下した。例えば、現在では使用が禁止されているDDTの使用によって、マラリアは撲滅され、多数の生命を救った。また、抗生物質等の使用によって、伝染病等死亡率の高かった疾病がコントロールされた。そのため、平均寿命が1950年の男53.1年、女55.7年から、1965年の男65.1年、女69.7年に、そして1985年の男70.8年と女75.8年に伸長された。
他方、出生率は戦後のベビーブームによって、1947年の38.3‰から1951年の50‰に飛躍的に上昇した。これは、ある程度戸籍登記の誤差によるものとみられるが、当時の出生率が驚くほどの高さに達したことは事実である。その後徐々に低下し、1975年には23.0‰に下がったが、1976年は「龍の年」で25.9‰に上昇し、翌年再び23.8‰に下がった。その後の5年間は、ベビーブーマーが子供を生む年齢に達し出生率は22〜24‰のレベルを保ったが、1985年には18.0‰に下がった。
この間、自然増加率は死亡率と出生率の変化に伴って大幅に変化した。1947年には20.0‰であったが、1951年には38.4‰に達し、1956年も36.8‰と大変な人口増加を示した。その後、徐々に減少し、1965年には27.2‰に下がり、1975年の18.3‰、1976年の21.2‰(龍の年)、1985年の13.2‰に下がった。
1906年から1985年の期間における台湾の出生率と死亡率の変化を総括的に見ると、西欧諸国の経験をモデル化した「人口転換」の過程に非常によく似ているということができる。すなわち、「多産多死」の状態から「多産少死」の階段を経て、「少産少死」の段階に達したものである。ただ、欧州諸国と異なる所は、欧州でのこの過程は、約200年ほどかかったが、台湾では約65年間(1920〜1985年)で完成したことである。この時間的差異をきたした原因といえば、欧州でのこの過程は、社会と経済の発展に伴い、徐々に自然的に発展したものであるがゆえに、長い時間を要した。しかし、台湾の場合、社会経済の発展が比較的急速であったことに加えて、政策的な要因によって死亡

 

 

 

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